SHUKAの誕生ストーリー

斗六屋店舗前にて

皆さまはじめまして!ここまでお読みくださり誠にありがとうございます。京・甘納豆処 斗六屋、4代目の近藤健史と申します。最後に、「SHUKA」に至った背景について、少しお話させてください。

■「甘納豆屋にだけはなりたくない」から「自分しかいない」へ

創業当時の木版画の引き札(今のショップカードに相当)

 

私は、京都にある、和菓子 ”甘納豆”を商う家系、”斗六屋(とうろくや)”に長男として生まれました。1926年(昭和元年)に、曽祖母の近藤スエノが創業したお店です。

大学院生時代の研究室にて

しかし、私は甘納豆屋にだけはなりたくない!と思っていました。それは、中学生の時、「甘い納豆なんて気持ち悪い」と実家が甘納豆屋であることをからかわれたことがあったからです。多感な時期だったこともあり、それ以降実家が甘納豆屋であることが恥ずかしいことだと隠すようになりました。

生き物が好きだった私は、その不思議さに惹かれ、大学院まで微生物を研究していました。

転機となった地元壬生寺の節分祭出店

心境の変化があったのは就職活動の時。地元の節分のお祭りに出店していたのを初めて手伝った時でした。社会勉強にと軽い気持ちで手伝ったのですが、お祭り期間の3日間、合計で2000人ほどの方が訪れ、甘納豆をご購入いただきました。そのお祭りには、40年以上出店しており、毎年斗六屋の甘納豆を楽しみにしておられる方も多くいらっしゃいました。その光景を目にした時に、「人に喜んでもらえる良い商売なんだ」と初めて実感しました。当時は卸売がメインだったので、こんなに多くのお客様のお顔を直接見るのは初めてでしたし、目の前で喜んでいる姿を見たのも初めてで、新鮮でした。

この光景を目にした時にふと、「自分はこれまで甘納豆に支えられてきた」と思ったんです。大学院までの学費をすべて親が支払ってくれていたのですが、その学費はすべて甘納豆を売って得たお金。奈良の大仏と同じ重さの甘納豆を売らないといけないくらいの金額でした。「甘納豆に恩返しがしたい」その想いが強くなり、また長男である自分が継がなくては誰も継ぎ手がいない、「残せるのは自分しかいない」と、家業を継ぐことを決心しました。

■甘納豆の価値。芽生えた使命感。

一番人気のお好み甘納豆

卒業後は大手の老舗菓子店で2年間働かせて頂き、和洋多くの菓子を見て、26才で家業に入りました。甘納豆の第一印象は、「古くさっ」でした。特に洋菓子と比較して、華やかさのない感じ、大量にまぶされる砂糖、パッケージもどこにでもあるような袋に入れただけでした。

でも、だんだんと甘納豆の持つ価値に気づきはじめました。これまで見てきた多くの菓子と比較して、圧倒的にシンプルだったんです。原材料は豆と砂糖のみ。これはお菓子として成立するための、最低限の条件でした。特に私がいいなと思ったのは、素材の色や形までも残す姿勢。人の手を入れすぎないところに、自然、生き物へのリスペクトがあると感じました。

収穫したての斗六豆(白花豆)

これは、「頂きます」や「もったいない」などの言葉に代表されるような日本で受け継がれてきた価値観とも共通すると思いました。そして、「MOTTAINAI」が世界共通の言葉になったように、実は世界に誇れる価値観を当たり前に持っているのです。

そして、この価値観は、これからの持続可能な社会に必要不可欠なものであるとも思いました。どれだけ環境負荷の少ないテクノロジー(ハード)が開発されたとしても、それを使う人間に自然を尊ぶ心(ソフト)がなければ、自然と人が調和した世界は訪れません。

また、多くの和菓子と同様に、甘納豆は完全植物性の菓子です。さまざまな食の制限(菜食主義や宗教、アレルギーなど)に囚われない貴重な菓子であることにも気づきました。

この菓子は、世界に発信していく価値がある残さなくてはならない。そういう使命感が芽生えていきました。

 

 

30代までを対象にした甘納豆のイメージ調査

しかし、甘納豆業界は廃業が相次ぐ斜陽産業でした。伝えていくためにできることはと考え、まずはマルシェなどのイベントに出店するようになりました。

お客様と会話する中で、甘納豆に対して持っているイメージがわかってきました。その多くは「お年寄りが食べる菓子」というものでした。このどちらかと言うとネガティブなイメージが、現代の生活から遠いものになってしまっている主な要因であることが分かりました。でもその場で試食してもらうと、若い方々も「美味しい」と言ってくれたんです。

■甘納豆を世界へ

2018年スローフードの世界大会"terra madre"会場にて

文化として続いていくためには、このイメージを変えていくこと、そして特に若い人たちに伝えていく必要がある。そのためにどうしたら良いかと考え、漠然と「海外で認められれば、インパクトが与えられるのでは」と思いました。そして、イタリアで2年に一度開催されるスローフードの世界大会に出品することに決めました。スローフードは、地域の豊かな食文化を伝え残そうというイタリア発祥の草の根運動です。世界中から、ローカルな食が集まり、甘納豆はぴったりでした。

イタリアでよく見かけたチョコレート

結論から言うと、スローフード世界大会での甘納豆の評判は芳しくありませんでした。そもそも海外では豆を甘くして食べるという文化がなく、中でも小豆は海外の人にとって見慣れない食材であるため、これが何で、なんのために日本人が食べているのか、と言う前提から理解してもらうことが必要でした。

では、世界で通じる菓子とはなんだろう?自由時間に会場の外をうろうろしていると、たくさんのジェラート(アイスクリーム)、そしてチョコレートが。まさにこれらの菓子がイタリアのみならず世界中で愛される菓子でした。

 

イタリアで見たチョコレートにヒントを得て開発した"加加阿甘納豆"(2020)

帰国後、チョコレートにヒントを得て、京都のクラフトチョコレートベンチャーとコラボし、1年以上の開発期間を経て、カカオ豆を使った新感覚の「加加阿甘納豆」を発表しました。これはカカオ豆=チョコレートという常識を覆す、世界的にも珍しいカカオのお菓子でした。カカオグラッセではなく、あえて甘納豆とつけたのは、甘納豆の認知向上、イメージアップにつなげたいという想いからでした。

発表後は、テレビ"京都知新"などのメディアでも取材を頂く機会が増え、より若い方の来店が増えました。一定の手応えを感じたものの、甘納豆そのもののイメージを変えるところまでは達しなかった、という印象でした。

本気で世界へ伝えていくには、もっと根本的な部分を変える必要を感じていました。プロダクトのレイヤーではなくてブランドというもう一段階上のレイヤーで考える必要があるのではないか。「世界で通じるブランドにしたい」、そういう想いが強くなってきました。

■世界に通じるブランドを創る

中川政七さんと奈良の鹿猿狐ビルヂングにて

そこで、工芸の経営再生支援・ブランディングで有名な、中川政七商店の会長である中川政七さんに相談しました。甘納豆の歴史、現状、私の想い、全てを聴いて頂きました。

コンサルティングを依頼し、回を重ねる打ち合わせの中で、私の中でずっとモヤモヤしていたものが、「自然の恵みに手を添える」という明確なコンセプトに落とし込まれて行きました。さらに、中川会長の「甘納豆って分解すると豆と糖、根源的にいうと"種"と"糖"だよね」という発言から、それを端的に表したブランドネーム「SHUKA(種菓)」に至りました。

甘納豆を残したい。廃業が相次ぐ甘納豆業界の中で、「SHUKA」はそのために進化した、甘納豆の古くて新しい形だと思っています。まずは、Makuakeの皆さまから。そして将来は、世界中の人々に愛されるお菓子に育っていって欲しいと思います。

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